農業と科学 平成19年4月
本号の内容
§微量元素よもやま話[5]
ヒ素
京都大学名誉教授
高橋 英一
§水稲育苗箱全量基肥専用肥料「苗箱まかせ」による連続栽培
群馬県藤岡地区農業指導センター
高橋 行継
§千町無田(大分県九重町)の黒ボク土水田開拓史に思う
(独)農業環境技術研究所
土壌環境研究領域長 小野 信一
京都大学名誉教授
高橋 英一
ヒ素はクラーク数0.0005%(49位)の微量元素ですが,その中でヒ素の名前ほど昔からよく知られていたものはないでしょう。
古代ギリシャ,ローマ時代,ヒ素化合物の毒性も,顔料などとしての用途も既に知られていました。ヒ素の化合物には黄~赤系の鮮やかな色を呈するものが多く,その硫化物である石黄(As2S3,雌黄ともいう)は,黄色の葉片状の塊で産する軟質の鉱物で,黄色の顔料に用いられました。石黄の英名はorpimentですが,これはラテン語のauripigmentum=auri[金色の]+ pigmentum[絵の具]から転化したものです。
またヒ素の元素名のArsenic(As)は,やはり石黄を指すギリシャ語のarsenikonに由来しますが,これは「男らしい,生殖力ある,強い」などと言う意味のarsenikosから派生したものといわれています(小学館ランダムハウス英和大辞典第2版)。これらの名前は,ヒ素化合物が顔料や強壮剤や毒薬に用いられたことを反映してます。
ヒ素は石黄(As2S3),鶏冠石(As4S4,雄黄ともいい,赤色~燈黄色で樹脂様の光沢がある),硫ヒ鉄鉱(FeAsS)などの硫化物として存在するほかに,銅鉱や鉛鉱,錫鉱,亜鉛鉱などに伴って産出します。そしてこれらの鉱石を精錬する際,加熱によって昇華し空気中で三酸化ヒ素(As2O3)に酸化され,冷えると凝縮して白色の粉(ヒ華)になります。これはwhite arsenicとよばれ,長い間ヒ素そのものと混同されていましたが,1733年A. Brandtはそれがヒ素の酸化物であることを示しました。単体のヒ素(金属ヒ素)の発見者は明らかではありませんが,13世紀にドイツの錬金術師Albertus Magnus(1193-1280)が,石黄を石鹸と熱して金属様の物質を得たといわれています(Encyclopaedia Britanica Ⅱ p434,1960)。
ヒ素の硫化物は難溶性ですが酸化物は水に溶け,無色,無味,無臭であるので,近世には殺鼠剤や秘毒(気付かれぬようにひそかに服用させることができ,慢性病のように人の命を徐々に縮める毒薬)として用いられていました。その後,ヒ酸鉛やヒ酸石灰などが殺虫剤や除草剤に,また合成有機ヒ素化合物(駆梅剤のSalvarsan=safe+arsenicや家畜家禽の駆虫用のアルサニル酸など)が医薬に用いられるようになりました。さらに最近は亜ヒ酸を還元して6ナイン(99.9999%)の高純度のヒ素とし,半導体そのほかの電子機器材料(GaAsなど)に使われています。
微量元素を”低濃度で植物の生育に刺激的な影響を与える毒物”とみる風潮があった19世紀末から20世紀のはじめにかけて,植物の生育におよぼすヒ素の影響について試験が行われました。微量のヒ素が人体に毒性をもつことはよく知られていたからです。その結果ヒ素の毒性は存在形態(Ⅲ価の亜ヒ酸とⅤ価のヒ酸)で大きく異なることが分かりました。そのいくつかの例をつぎに紹介します1)。
表1-Aにみられるように,トウモロコシの生育は2ppm(0.002g/l)の亜ヒ酸(As2O3)で著しく阻害されるのに,ヒ酸(As2O5)の場合はその100倍以上の濃度でも阻害されていません。さらに培養液がリン酸を含まないときは,30-70ppmのAs2O5によって生育は大幅によくなっています。しかしこれは開花期までの効果で,それ以後は生育は減退して行きました。したがってヒ酸がリン酸の代替をするとはいえませんが,ヒ素(ヒ酸)を”刺激元素”とみなすことは可能かも知れません。
表1-Bは植物(オオムギ,ソバ,タデ)が枯死するまでの時間で毒性を比較した結果ですが,亜ヒ酸の場合は19ppmの濃度で2~4日で枯死するのに対し,ヒ酸ではその10倍以上の濃度で枯死するまでの日数も10倍かかるという,際だった毒性の違いを示しています。またイネ科のオオムギにくらべてタデ科のソバ,タデはヒ酸に強く,耐性に植物種間差異があることも示しています。

図1-A,Bはイギリスのローザムステッド試験場で行われた,オオムギについての試験の結果です。亜ヒ酸(図1-A)の場合,生育は0.1ppmから低下し始め,10ppm以上では殆ど生育不能になっています。ただし根の生育に影響が現れるのは1ppm以上の濃度で,地上部とかなり差があります。これに対してヒ酸(図1-B)では10ppmまで生育に特に影響はみられません。

これらの初期の研究は,三価のヒ素の酸化物(亜ヒ酸)の毒性は五価のヒ素の酸化物(ヒ酸)に比べて著しく強いこと,植物の種類によってヒ素耐性に差があること,またヒ酸はリン酸の不足を部分的に補うような挙動をすることなどを示しています。
ヒ素の毒性の一つにチオール(SH)基の関与する酵素作用の阻害がありますが,三価のヒ素はSH基と結合して安定なキレートを形成するのに対し,五価のヒ素はSH基に親和性をもたないので毒性が少ないと考えられます。
ヒ酸は動物では肝臓などで亜ヒ酸に還元されてはじめて毒性を示すといわれていますが,ヒ酸そのものがリン酸化反応で無機リン酸と競合し,酸化的リン酸化反応の脱共役をする(ADPとADP-ヒ酸を形成するが不安定なため分解する)可能性もあります。(文献2の8-10頁)。
また投与したヒ素化合物の排泄を比較した実験では,有機態のヒ素で無害のアルサニル酸(H2NC6H4AsO3H2)は極めて速く,また毒性の弱いヒ酸もそれより遅いが完全に体外に排出されるのに対して,毒性の強い亜ヒ酸では51%しか排出されず体内にとどまる傾向がありました。このことから排出速度も毒性や耐性の違いに関係していることが分かります。
ヒ素耐性の植物種間差異については,後で触れるようにヒ素集積植物が知られており,その蓄積の仕組みはphytoremediationの観点からも関心がもたれています。
ヒ酸とリン酸の関連性については,かつて唱えられたケイ酸のリン酸一部代替説が想起されます。ケイ酸の場合はリン酸の生理作用そのものでなく,植物体内あるいは土壌中のリン酸の有効度を高めることによって,リン酸不足環境下で効果を現すことが明らかにされました。ヒ酸イオンAsO4はリン酸イオンPO4と性質が似ており,同じような行動をすることがありますが(ADP-ヒ酸の形成や土壌の固定サイトの共有など),植物がリン酸に不足しているときヒ酸がどのような作用をするのかは明らかになっていません。
なおリン酸施肥がヒ素の害作用を助長する場合がありますが,それは土壌の固定サイトにリン酸がヒ酸と競合することの他に,リン酸肥料中の不純物として含まれているヒ素が関係すると思われます。
農業におけるヒ素被害はイネでよく知られています。一つは鉱害によるもの,今一つは果樹園を水田に転換した場合です。
前者の例としては,宮崎県土呂久鉱山や島根県津和野の笹ヶ谷鉱山周辺の水田で発生したイネのヒ素被害があります。両鉱山とも慶長年間に開鉱され,長らくの間スズや銅の採掘精錬ととともに亜ヒ酸の採取が行われてきました。とくに笹ケ谷鉱山の亜ヒ酸は,江戸時代「岩見銀山ネズミ取り」の名で売られていました。いずれも昭和40年代に閉鉱になりましたが,精錬を行った窯周辺に堆積された大量の鉱滓中のヒ素が,長年の間に下流の水田を汚染し,しばしば水稲に大きな被害を与えてきました3)。
水田は地形的に,野積みされた高濃度のヒ素を含む鉱滓が流入集積しやすいだけでなく,湛水することによって毒性の強い亜ヒ酸に還元されるため,ヒ素の害を受けやすい環境になります。果樹園もかつて農薬としてヒ酸石灰やヒ酸鉛が多用されていましたが,これを水田に転換すると集積していたヒ酸が亜ヒ酸に還元されて,水稲に害をもたらすようになります。
表2は笹ケ谷鉱山周辺水田土壌のヒ素濃度ですが,対照水田に比べて全ヒ素,1N-HCl可溶性ヒ素とも7倍の高さになっています。この地域のヒ素汚染水田では,苗を植え付けて活着すると灌漑を中止し,作土に割れ目が入るまで乾かし,その後はときどき田面を潤す程度の灌水をして稲作を行うのが慣行になっていました。このような節水栽培では多収は望めませんが,湛水栽培に比べるとヒ素の被害ははるかに少なくてすみました4)。

図2は現地(津和野)の非汚染土壌に,ヒ酸ナトリウムでAsとして0,40,80,160ppm(乾土当たり)になるように加え,湛水と節水(落水)の2系列で比較したポット試験の結果です。節水系列は初期に湛水して苗を植え付け,活着後ポットの排水孔の栓を抜き,干ばつにならないように深さ5cmの水中に浸して下方から水分を供給,真夏に土の表面が白く乾くときは上からも軽く灌水したものです4)。

湛水系列はヒ素濃度の上昇に伴い,6月下旬頃から快晴の日には水稲の葉が巻いて萎れはじめ,次第に生育は不良となり収量も激減しました。これに対して節水系列では,ヒ素無添加の生育は湛水より劣り収量も20%ほど減収しましたが,ヒ素濃度が上昇しても障害は現れず,ほとんど減収しませんでした。
また土壌の酸化還元電位(Eh)を測定したところ,湛水系列ではEhが下降して還元状態が発達し,8月下旬には-200mV前後であったのに対して,節水系列では初期苗が活着するまで湛水したのでEhは低かったが,落水後は次第に上昇し,同じ8月下旬には400mV以上を示し,酸化状態で経過していました。
ヒ素汚染地で畑作物を栽培する場合,生育障害は比較的軽微ですが,湛水して水稲を栽培するとしばしば激しい生育障害が発生します。しかし水管理や高畦などによって作土を酸化的に保てば,障害は大幅に軽減します。したがって水稲のヒ素障害は,作物間のヒ素耐性の差異よりも栽培環境,とりわけ湛水条件に問題があることがわかります。このことからわが国の作物のヒ素障害は,主として水稲に特有な問題ということができます。
昔(1973年)笹ケ谷鉱山の精錬跡地周辺の植生調査を行ったことがありますが,1%前後のヒ素が残っている鉱滓が堆積されていた辺りの植生は非常に貧弱で,ヘビノネゴザと地衣類くらいしか見られなかったのが印象的でした。ヘビノネゴザは鉱山シダ(あるいは金気草)ともよばれ,銅,鉛,亜鉛,カドミウムなどの重金属の他に,ヒ素も集積することが明らかにされています。
表3は兵庫県の生野鉱山跡地で採取したヘビノネゴザを跡地土壌(全ヒ素濃度651ppm)を用いてポット栽培した結果ですが,一般の陸生植物の数百倍のヒ素濃度になっています5)。因みに笹ケ谷鉱山下流域のヒ素汚染水田の水稲茎葉のヒ素濃度は,健全なものが3ppmであったのに対して,障害甚が72ppm,中が22ppm,軽が19ppmでした6)。ヘビノネゴザが高濃度のヒ素を集積しても何故生育が可能なのか,その耐性の仕組み(体内での存在形態,存在場所など)の解明が待たれます。

陸生植物の多くが1ppm以下のヒ素濃度(対乾物)であるのに対して,海藻類(とくに褐藻類)のヒ素濃度は数十ppmオーダーと高いことが知られています(表4)。海水のヒ素濃度は0.003ppmと非常に低いのに,海藻はどのようにして海水からヒ素を1万倍以上も吸収濃縮しているのか不思議です。ただ海藻中のヒ素の形態は主に有機態のアルセノシュガーで,毒性は極めて低いことが明らかになっています。

また海産の魚(マガレイ,マアジ,マイワシ)やエビ(タイショウエビ),タコ(ミズダコ)の筋肉に,数十ppmのヒ素が有機態のアルセノベタインの形で検出されています(表5)。これらの海産動物は無機態のヒ素を有機化する能力は小さいので,この結果は海水中の無機態ヒ素が海藻やプランクトン類によって有機化され,プランクトンあるいは海藻食性動物から肉食性動物へという食物連鎖を反映したものと考えられます。

海産動物は取り入れた有機態ヒ素を,最終的にアルセノベタインに換えて保持しています。われわれ日本人は海産物を多量に摂取しているので,その中に含まれているヒ素の健康に対する影響が気になりますが,動物実験によるとアルセノベタインの毒性はショ糖以下といえるほど小さいので,心配はないようです。
ところで19世紀の末にイタリアのGosioという人が,ある種のカビ(Mucor mucedo,Aspergillus glaucum,Penicillium glaucum,Penicillium brevicauleなど)はヒ素化合物上で生育することを発見しました7)。彼によるとこれらのカビはヒ素の硫化物には作用しないが,亜ヒ酸銅などのヒ素の酸化物を還元してガス状のヒ素にします。実際ヒ素を含んだ土に培養するとヒ化水素が発生します。
ヒ素化合物の上で盛んに生育しているこのカビと一緒に容器に入れられたネズミは,数秒で死ぬくらいその作用は強力でした。しかし死んだカビにはこのような作用はないので,ヒ素ガスが発生する反応にカビの活性が関係していることが分かります。これらのカビはヒ素を食べて生きているのだとGosioは述べています。ヒ素化合物は防黴剤として用いられますが,ヒ素耐性をもった”ヒ素資化性カビ(arsenical fungi)”には効果がないばかりか,その生長を助け,有害性を発揮させる危険性があります。
19世紀にはシエ一レ緑(Scheele’s green 酸性亜ヒ酸銅;絵の具用,1819年,K. W. Scheeleの名に因む)など,ヒ素を含んだ顔料で描かれた壁紙が用いられるようになりました。ところがそれに伴って,顔料から揮発性のヒ素化合物が生成し,かなりの人々が中毒にかかり,時には死亡する事故が起こりました。ナポレオンもその一人ではなかったかと言う説があります。
1962年ナポレオン毒殺説(Forshufud,S. ”Who Killed Napoleon ?”)が紙誌上を賑わしました。ナポレオンの,おそらく死の直後にとられた二本の毛髪の放射化分析をしたところ10および3~4ppmのヒ素が検出され,ナポレオンはセント・ヘレナの最後の日々にヒ素中毒にかかっていたと結論されました。そこでナポレオンはヒ素で毒殺されたのではないかという疑惑が起こり,犯人探しが始まりました。
しかし1982年になって,この毒殺説を否定する論文8)がイギリスの二人の研究者によって発表されました。ナポレオンが死んだ部屋のバラの花模様を描いた壁紙の一部が保存されていましたが,彼らはこれを蛍光X線法で分析したところ,ヒ素中毒の症状は十分に起こすが,そのために死ぬとは考えられない程度のヒ素を検出しました。
壁紙はナポレオンの死の2年前の1819年に張り替えられたものですが,ナポレオンの住んでいたセント・ヘレナのロングウッドハウスは湿気がひどく,壁紙にカビが生える可能性は十分にあり,意図的な暗殺を仮定しなくても,カビによって気化したヒ素による中毒症と説明できるとこの論文は述べています。
ヒ素ほど話題性に富んだ,ある意味で通俗的な微量元素はないと思います。ヒ素は昔から強壮剤として,また秘毒として使われてきたからです。
東洋ではヒ素は丹薬(不老不死と称する練り薬)の成分として使われました。中国の神農本草経(5世紀中頃,梁の陶弘景著)に「雄黄(AsS)は食して軽身,神仙,また雌黄(As2S3)は久しく服用して軽身,増年,不老の効あり」と記されているそうです9)。
ヨーロッパでは18世紀に,フアウラー液という水薬が登場しました。イギリスの薬剤師トマス・フアウラー(1736-1801)は,当時市場に出回っていた”瘧(主にマラリアの一種の三日熱を指す)および熱病の特許薬”の成分を分析し,それがヒ素溶液であることを発見しました。彼はその処方を工夫し,1768年に「瘧,間歇熱,および周期性頭痛の治療におけるヒ素の薬効に関する医学報告」という論文に紹介しました。
これがフアウラー液(ヒ酸カリウムの水溶液)と呼ばれるものですが,これによってヒ素は治療薬としての地位を認められるようになりました[文献10)の202頁による]。そして19世紀になってより安全な合成有機ヒ素化合物が登場するまで,無機のヒ素製剤は貧血,神経疾患,リュウマチ,マラリアなどの治療に処方されていました。
またオーストリアのチロルやステイリアのアルプス地方では,天然産のヒ素の結晶を摂取する習慣が近年まであったということです。これは高度馴化に役立ち,血色がよくなり,食欲が増進し,元気がでると「習慣的ヒ素摂取者」に信じられていました。これらの特異な性向の人,いわゆるヒ素噌好食症(Arsenophagia)の人はヒ素の摂取を中止すると,不快感,虚脱などの症状を呈することがあるそうです[文献2)の3頁による]。
もう一つの秘毒としてのヒ素の利用は,16世紀に亜ヒ酸の水溶液が無色,無味,無臭の毒薬として世に出るや,17~18世紀にかけてイタリアやフランスで大いに流行しました。ボルジア家の毒薬は有名ですが,それと並んでトフアーナ水があります。
17世紀のイタリアにトフアーナ(Toffana)と言う女がいました。彼女は「バーリの聖ニコラスのマナ(Manna von St. Nicolaus von Bari)」という銘をつけた水薬を,その聖者の絵を装飾した小さなガラスの薬瓶に入れて売り出しました(彼女の名に因んでトフアーナ水と呼ばれました)。
この水薬はヒ素を含んだ無色無味の液で,表向きは化粧水として売り,その毒物としての使い方は,販売の際にこっそりと教えました。人妻たちはこの”化粧品”を求め,好ましくない夫を何の苦もなく殺してしまうことができました。この一見無害な製剤が貴婦人の化粧台にあっても,長い間何の嫌疑も受けませんでした。結局トフアーナは捕らえられて処刑されましたが,それまでに六百人以上もの犠牲者がいたと言われています。[文献10)の143頁による]
毒薬としてのヒ素は文学作品にも登場します。たとえば有名なフロベールの長編小説「ボバリ一夫人」(1857年刊)の最後の章には,主人公のエンマ・ボバリーがヒ素を飲んで自殺するに至る症状が詳しく描写されています。推理小説には殺人がつきものですが,その手段にヒ素はよく使われました。また演劇では,アメリカのJoseph Kesselring作の”Arsenic and Old Lace”(1941年,邦題「毒薬と老嬢」)がありますが,それは映画化され(1942年),後に日本でも上映されました。
さらにヒ素が原因の社会的な大事件が,戦後の日本で起こっています。もっとも有名なのは森永ヒ素ミルク事件です。これは1955年6月下旬から7月上旬にかけて西日本に発生した,森永の調製粉乳による乳幼児の大規模な中毒事件で,調製剤として使われた工業用の第二リン酸ソーダ中に含まれていたヒ酸塩が原因でした。
また同年末には醤油によるヒ素中毒が宇部市近郊で発生しています。この醤油は酸,アルカリを用いる直接分解法でつくられたアミノ酸を使用しており,その酸,アルカリが工業用で,不純物としてヒ素を含んでいたためでした[文献2)の1頁]。酸アルカリに粗製品を使わなければ起こらなかったと思われるれらの事件には,硫酸やリン酸に随伴しやすいヒ素の性質が関係していたといえます。
このようにヒ素という微量元素は,生と死の妙薬として世間に馴染み深い存在でした。
土呂久鉱毒被害者の支援運動に参加,その後アジア砒素ネットワークを立ち上げた川原一之氏の近著[文献11)]の終わり近くに,つぎのようなくだりがある。
「アジアのヒ素汚染の状況が分かるにつれて,土呂久の位置がはっきりとみえてきた。ヒ素を含んだマグマは,地表付近で冷えてかたまって,さまざまな鉱石を含む鉱脈となる。土呂久のヒ素汚染は,鉱脈からヒ素の鉱石を掘り出して,それを焼いて猛毒の亜ヒ酸を製造したことが原因だった。ヒ素汚染の原初の形といってよいだろう。大河の流域にみられるヒ素汚染は,風化して運ばれて地下に眠っていたヒ素がチューブウエル(掘り抜き井戸)でくみあげられておきた。鉱山周辺の汚染に比べると,二次的な汚染といえる。大河の流域の方が圧倒的に規模は大きい。土呂久は,規模は小さくても,その被害ははるかに激しかった。土呂久からネットワークがつくられていったのは,自然な形のように思われる。」
わが国ではかつて鉱工業がからんだヒ素の健康被害はあったが,アジアの開発途上国では農業がからんだヒ素汚染が深刻である。これらの国では1960年代後半から「緑の革命」が始まった。その一つに乾季における高収量品種のイネの栽培がある。それには大量の水が必要であるが,その水を地下水に頼ったため水位の低下を招いた。これが地層の中のヒ素が地下水に溶け出す原因となり,ヒ素を含んだ井戸水を飲料水にしている地域住民に,慢性的ヒ素中毒をもたらす結果になった。
ヒ素は太古の昔から静かに地下に眠っていた。それを鉱工業さらには過度の農業生産が,このヒ素を目覚まさせ環境を汚染し,健康被害をもたらすことになったのである。今日の環境問題には,人口の増加と生産活動の昂進,すなわち人類の繁栄の結果が宿命的にかかわっている。
1)Winifred E. Brenchley:
Inorganic Plant Poisons and Stimulants 51-64 Cambridge At The University Press(1927)
2)石西伸ほか監修:ヒ素-化学・代謝・毒性,恒星社厚生閣(1985)
3)環境庁土壌農薬課編:土壌汚染
52 -53,203-212頁 白亜書房(1973)
4)山根忠昭:島根県におけるヒ素汚染の実態と対策 土壌汚染の機構と解析
38-71頁 産業図書(1979)
5)岩崎貢三:重金属汚染土壌の修復を目的とした植物根圏機能の高度利用
97頁 平成15-17年度 科学研究費補助金研究成果報告書(2006)
6)山根忠昭著:水稲におけるヒ素被害の発生機構と対策
島根農試研報 24:1-95(1989)
7)B. Gosio:
Zur Frage,wodurch die Giftigkeit arsenhaltiger Tapeten bedingt wird,Berichte Deut. Chem. Ges. 30 1024-1026(1897)
8)David E. H. Jones,Kenneth W. D. Ledingham:
Arsenic in Napoleon’s wallpaper,Nature vol. 299 626-627(1982)
9)山県登著:微量元素 123頁 産業図書(1977)
10)チャールズ・ラウオール著:世界薬学史 科学書院(1981)
11)川原一之著:アジアに共に歩む人がいる-ヒ素汚染にいどむ 岩波ジュニア新書(2005)
群馬県藤岡地区農業指導センター
高橋 行継
水稲育苗箱全量基肥専用肥料「苗箱まかせ」による水稲育苗箱全量基肥(以下,箱全量)栽培は,本田生育に必要な肥料成分を育苗箱に培土と共に播種時に全量投入し,本田施肥を省略する技術である(庄子 1999)。しかしながら,苗箱まかせは301,400の両タイプ共に燐酸成分を含まず,加里成分を含む301でも窒素成分に対して加里の成分比率は低く抑えられている。このため,水田にこれらの不足成分をどのように施肥していくかが大きな課題である。農閑期にこれらをようりんやケイカルなどの土壌改良資材として施用する方法もあるが,本田での作業が必要になることには変わりなく,省力施肥という観点からはマイナスである。
この点に関して北村ら(1995)は堆肥や稲わら等がほ場に還元されていれば,燐酸や加里の補給にそれほどこだわる必要はないと報告している。
そこで,稲わらを全量鋤き込みとした条件で箱まかせ単独施用による4か年の連続栽培を行い,基肥と1回追肥による標準栽培との収量・品質等の変化について検討したので報告する。
試験は2003年から2006年の4か年,群馬県館林市の現地圃場で実施した。箱全量各区には「苗箱まかせNK301-100」(以下,単に苗箱まかせ)を供試した。本肥料は苗箱まかせN400-100と被覆塩化加里を配合し,窒素-燐酸-加里の保証成分量(以下,3成分比)は30-0-10%である。標準区は当地域で普及している基肥+追肥(概ね出穂20日前に1回)の体系とし,基肥は化成オール14(3成分比:14-14-14%),追肥はNK化成(同:17-0-16%)を供試した。試験圃場では4か年共に前作として麦の作付けは行わず,前年の稲わらは全量を収穫後の冬期に鋤き込んだ。
箱全量各区の育苗箱内の施用位置は箱下面から培土,肥料の順にする上層施肥とした。
供試品種はあさひの夢とした。群馬県のあさひの夢の栽培技術指針では,基肥は窒素成分で5kg/10a,追肥は同2kg/10aであり,この施肥量を基準とした。箱全量区の施肥量は標準区の基肥と追肥の合計窒素量の40%減を目標とし,10a当たり30箱を使用する前提で1箱当たりの施肥量は467gとした(高橋・吉田 2006)。実際の施肥量は移植精度によって変動するため,移植後に残った苗マットの量から施肥量を推定した。
2003年は標準区と箱全量区の2区,2004年は標準区と箱全量1年目区と同2年目区というように箱全量区を順次増やし,3年目の2005年は標準区と箱全量区の1,2,3年目の3区を設定した(以下,箱全量1区,同2区,同3区)。しかし,2005年は害虫が9月後半に異常発生し,この影響を受けて収量等が試験区によって大きく異なる結果となった。このため2006年に2005年と同様の設計として,再検討を行った。
本田移植後40日目(以下,40日調査)に草丈,茎数を調査した。また,成熟期に稈長,穂数,収穫後に籾数,玄米重,千粒重,外観品質を調査した。外観品質は1(上上)~9(下下)の9段階評価とした。全籾数は脱穀時に全籾を回収し,1/16に均分したサンプルから籾数を計測して求めた(楠田 1995)。登熟歩合は全籾数と玄米千粒重から玄米粒数を算出して求めた。葉色は移植後から成熟期まで適宜葉緑素計によって測定した。苗箱まかせの溶出量を測定するために,ネットに封入した肥料サンプル5gを育苗箱内に播種時に埋め込んだ。移植後は引き続き同一サンプルを本田内に埋め込み,定期的に回収してPDAB発色による吸光光度測定法によって窒素成分の溶出量を調査した。また,本田栽培終了2年目と同4年目にあたる2005年3月と2006年10月に試験圃場の土壌を採取して燐酸と加里の成分含有量を調査した。
4年間にわたって検討を行ったが,中間年の2年目と最終年次の4年目の結果について紹介する。移植作業終了時の窒素成分の投入量は,計画の40%減肥に対して2年目は38%,4年目は45%であった。移植後の生育は前報(高橋 2007)でも報告したとおり,2か年共に肥効調節型肥料に特有な生育を示した。以下,2004年の結果(表1)も示しながら,箱全量連続施用の3年目までの結果が揃った2006年の結果を中心に述べる。

2006年の箱全量各区は共に標準区に対して移植後の生育はやや抑制され,40日調査の草丈は標準区の82cmに対して72~74cmと低くなった(表2)。また,茎数は標準区の460本/㎡に対し418~382本/㎡と少なかったが,有効茎歩合が標準区よりも10%程度高まった結果,穂数は標準区の316本/㎡に対して338~296本/㎡とほぼ遜色なかった。

2006年は移植後の生育量が不足気味になり,箱全量1,2区の玄米重はそれぞれ52.3,51.9kg/aで標準区54.3kg/aとの対比で96%とやや少ない傾向ではあったが,有意な差ではなかった。減肥率が38%であった2004年は箱全量1,2区の玄米重は58.4,62.8kg/aで,特に箱全量2区は標準区57.6kg/aを有意に上回った。
収量構成要素を検討すると,全籾数,1穂籾数,登熟歩合,千粒重はいずれもほぼ標準区並みであった(表3)。2004,2006年共に外観品質(表1,2)やタンパク質含有率(データ省略)は標準区並みであった。

収量,品質は2006年の箱全量1~3区を相互に比較しでも有意な差はなく,連続栽培による収量や品質の明らかな低下は認められなかった。
2006年の葉色推移を図1に示した。箱全量各区の減肥率は45%と目標設定を上回ったため,本田生育期前半の葉色値は標準区の葉色値よりもやや低いが,概ね標準区と同様の推移を示した。

2004,2006年の苗箱まかせの肥料溶出量を図2に示した。調査期日が一部異なり,両年の溶出パターンにも多少の差があるが,いずれの年次も収穫期までに95%程度の成分が溶出した。また,栽培終了後の土壌調査では箱全量各区における2004年の有効燐酸,2006年の加里は共に標準区の値を下回っているが有意な差ではなく,いずれも群馬県の水田の施肥基準を上回っており,不足は特に認められなかった(表4)。


過去の筆者の箱全量試験からも概ね40%の減肥率が確保できれば,収量は標準並みを確保できることが明らかになっている(高橋ら 2007)。
2006年の箱全量1,2区の玄米重は標準区対比で96%とやや少なかったが,減肥率が45%と当初設計の40%を上回る値となり,移植後の生育量が不足気味であったことが影響しているものと考えられた。一方,減肥率が38%であった2004年は箱全量各区は標準区に対して101%以上となり,遜色ない玄米重であった。2006年の箱全量3区(3年間の連続栽培試験区)でも標準区に対して苗箱まかせの単独連続施用による収量や品質の明らかな低下は認められなかった。
群馬県の東部平坦地域の水稲一毛作水田では,土壌改良資材や堆肥の積極的な本田施用はあまり行われていない。また本来,地力の高い地域であり,燐酸や加里は土壌中に十分含まれている。近年,稲わらの全量鋤き込みは関係機関の指導もあって広く普及してきており,稲わら施用による有機物の圃場還元は定着しつつある。本研究でも稲わら全量鋤き込みによって,標準体系とほぼ遜色ない収量・品質が得られており,北村ら(1995)の示した稲わら全量還元が苗箱まかせの肥料不足成分の補給方法として,最も現実的な対応策であると考えられた。
以上の結果から,稲わらを全量鋤込むことによって,本肥料単独の連続栽培を行っても3~4年程度の比較的短期間であれば,燐酸,加里の土壌中の成分不足は発生せず,収量・品質も標準体系に対して概ね遜色がないことが明らかになった。
●北村ら:1995,
肥効調節型肥料による施肥技術の新展開1-水稲の全量施肥技術-,土肥誌,66,71-79
●楠田:1995,
水稲収量調査における㎡当たり籾数の効率的調査法,日作九支報,61,12-15
●庄子:1999,
環境保全型農業における新肥料の活用,農林水産研究ジャーナル, 22,6-11
●高橋・吉田:2006,
群馬県稲麦二毛作地帯における水稲育苗箱全量基肥栽培のプール育苗法に関する検討,日作紀,75,119-125
●高橋ら:2007,
群馬県の早植・普通期水稲栽培における育苗箱全量基肥栽培,日作紀,76(印刷中)
(独)農業環境技術研究所
土壌環境研究領域長 小野 信一
日本土壌肥料学会では,2006年の総会で,「生活・文化土壌学」を第9部門として新設することを決定した。部門長は,北里大学教授の陽 捷行さんである。2006年の秋田大会では,さっそく多くの興味ある発表があった。筆者も発表の末席を汚したが,その内容について本誌より原稿の依頼を戴いたので,この拙文を作ってみた。
なお,千町無田調査に際しては,筆者の旧九州農業試験場時代の室長古賀 汎さんのご協力を戴いた。記して謝意を表します。
奈良時代に元明天皇の詔によって,諸国で「風土記」が編纂された。このうち,現存しているものは常陸,出雲,播磨,肥前,豊後の五編のみである。「豊後風土記」は不完全ではあるが現存しており,その中に”餅の的と白鳥の話”が記述されている。原文は漢文体の古和文で書かれているが1),後世の人がこの記述をやや意訳して”朝日長者伝説”として伝えている。筆者は大分県の生まれなので,子どもの頃からこの昔ばなしは,絵本や紙芝居で知らされてきた2)。また最近では,地元でミュージカルなどに脚色して上演されているとも聞く。この昔ばなしの概要は次のとおりである。
《その昔,九重高原の中心部に,浅井長治という長者が住んでいた。この人は別名”朝日長者”とも呼ばれ,後千町・前千町の美田を幾千人もの使用人に耕作させ,贅沢三昧の生活をしていた。ある時,祝いの席で,長者は鏡餅を的に弓矢を射る遊びを思いついて,自分で矢を放った。すると鏡餅の的は白い烏に変わり,南の彼方へ飛び去ってしまった。これを期に,この土地ではコメがまったくとれなくなって,長者一族は没落し,人々は天罰とうわさした。そして千町の美田は,不毛の荒野と変わり果ててしまった。》
この土地には,現在でも「長者原」や「千町無田」などこの伝説にまつわる地名が残っており,白い烏が飛び去ったとされる場所には「白鳥神社」が祀られている。千町無田は,筑後川の源流で,標高約900mの飯田高原に位置する。
阿蘇くじゅう国立公園の高原を貫いて走る通称「やまなみハイウェイ」と呼ばれる観光道路がある。この沿線に”朝日台”という名所があり,ここが朝日長者の屋敷跡とされている。この高台から千町無田の盆地を見下ろすことができる。朝日台のドライブインの裏手にブルーベリィの小さな畑があり,その向こう側に山を削った土壌断面を見つけることができた。典型的な堆積火山灰土壌の断面である。A層には腐植が集積して黒ボク土壌の特徴を示している。千町無田は,これらの黒ボク土壌が低地に集まってできた湿地と考えられるので,黒ボク土水田地帯である。土壌分類では,「多腐植質黒ボクグライ土」に属し,その作土Ⅰ,Ⅱ層の理化学性は表に示したとおりである3)。
このような黒ボク土水田で稲作をすれば,まず気がかりなのがリン酸欠乏の問題である。豊後風土記の記述が正しいとすれば,奈良時代以前にこの千町無田で,どのように稲作が行われていたのだろうか。
この疑問を解くために「野鳥飛来説」を引用して,土壌肥料学的に次のような考察を行ってみた。
すなわち,朝日長者の伝説を三段階に分けて考えると,
①水田でよくコメが穫れた←渡り鳥の飛来が多く,この鳥が糞としてリン酸などの養分を供給した,
②鏡餅の的に矢を射かけると白鳥となって逃げた←食用として野鳥を乱獲した,
③急にコメが穫れなくなった←野鳥の飛来が激減して水稲のリン酸欠乏が顕著になった。
このような現象は,千町無田のような火山灰土水田ではとくに顕著に現れたと思われるが,日本列島の他の地方でも観られたのではないだろうか。この点については,3項で詳述することにする。
千町無田は,江戸時代には何度か開拓の試みがあったことが記録に残っている。江戸時代には,千町無田は徳川幕府の直轄地(いわゆる天領)だった。日田代官所の管轄で,そこの記録によれば,開拓の試みはいずれも失敗している。
千町無田が本格的に開拓され始めたのは明治になってからである。明治22(1889)年の筑後川大洪水によって生活の術を失った多くの小作農民は,600名がハワイへの移民を決意した。しかし,移民の選に漏れた残り組も多く,彼らは筑後川を遡って千町無田の開拓に挑むことになる。この開拓を指揮したのが,旧久留米藩士の青木牛之助である4)。青木は,この千町無田開拓の許可を得るために大変な苦労をする。県が福岡と大分にまたがっていたことも許可が下り難い原因であった。青木は上京して,時の明治政府の要人だった山岡鉄舟に面会するなどの苦労を重ねた末,ようやく開拓申請の許可を得る。

先遣隊27名を率いて,青木が千町無田に入植したのは明治27(1894)年のことである。翌年には移住開拓国(家族を含む)が入村する。全員が故郷の家屋敷を処分して,背水の陣で臨んだ入村であった。そして,この開拓事業は最初から苦難に直面する。リン酸肥料が無い時代の黒ボク土原野の開拓である。その厳しさは想像に余りある。
生活苦と失望から脱落者も出るが,後続の入村者もあり,明治37 (1904)年には開拓者の数は43戸となる。近くの硫黄山から採掘された硫黄の運搬などで日銭を稼ぎ,何とか食いつなぐというギリギリの生活をしながら,開拓は少しずつ進められてゆく。「馬や牛でも少しはうまいものを食っている」と嘆かせた当時の生活は,まさに悲惨そのものであったようだ。
この開拓事業がどうにか軌道に乗ったのは,明治38(1905)年である。青木牛之助の侍魂による指導力と,移住農民の不屈な開拓者魂の成果と言えよう。

しかし,千町無田が本当の美田に変わったのは,戦後になってからである。黒ボク土とリン酸の関係が科学的に解明され,千町無田の水田にも十分なリン酸肥料が施されるようになって,水稲の収穫量は飛躍的に向上した。まぼろしの”朝日長者の美田”がようやく実現したのである。さらに,水稲苗の根に過リン酸石灰をまぶして移植する「根付リン酸」という施肥法が考案され,収量はもっと高まる。昭和30(1955)年には,714.4kg/10aの高収を上げた人が出て,「米作日本一九州ブロック増産躍進賞」まで受賞した5)。
千町無田の開拓が始まった当初,どうしても水稲がうまく作れないことを知った農民たちは”朝日長者の崇り”を疑った。このため開拓村の中に「朝日神社」を祀って,稲作の定着を祈願したのである。この神社には,現在は朝日長者などとともに,青木牛之助が合祀されている6)。また境内には,青木牛之助の顕彰碑に並んで,千町無田開拓百年記念碑(1992年建立)が建てられている。

千町無田の近くに白鳥神社が祀られていることは前述した。この神社について少し調べてみたが,必ずしも千町無田伝説のみと関係しているとは思えなくなった。というのは,全国に白鳥神社は120社もあるそうで,この神社についてはもっとオール・ジャパン的視野で考える必要がありそうだ。とくに白鳥神社が多いのは,愛知県30,岐阜県13,宮城県9,香川県6,滋賀県5社などである。上記の千町無田伝説のある大分県にも4社がある。
この神社について文献7)を調べてみると,古代史研究家の芦野 泉氏が,ちゃんと土壌肥料学的な考察をしていたことに驚いた。芦野氏によれば,種々の白鳥伝承は初期農耕における穀霊信仰と深くかかわりを持っているということだ。稲刈りの終わったころから翌年の春まで,日本列島には多数の渡り鳥が飛来して大量の糞を水田に残していたようだ。鳥の糞はNPKの三要素をはじめ多くの養分を含むため,この糞による水稲の増収効果は著しいものがあったと思われる。渡り鳥の多く集まる水田と,あまり集まらない水田の間で,コメの収穫量にも差異が観られたことだろう。このようなことから,古代農民は,渡り鳥(ハクチョウなどの白い鳥が多かったか)を神の使いあるいは神そのものとして崇めるようになったと想像される。これが白鳥信仰の源流であろう。
しかし,後になって,農民たちは鳥を狩猟して食用とすることを覚え,渡り鳥の飛来が減少をはじめる。このあたりの経過を,警告を込めて上記の朝日長者伝説は伝えているのではないだろうか。
このような古代の環境破壊はまた,時の政府(大和朝廷)をも悩ませたようだ。天武天皇の時代の675年に「殺生禁断・肉食禁避の勅」が発布され,鳥獣の狩猟・食肉が禁止されている。実はこの勅令の趣旨は,日本史上では,幕末から明治維新のころまで千年以上も生き続けることになる。安政元(1854)年に幕府が,米国使節ペリーと締結した日米和親条約(下田条約)の中に,次の一項が書き込まれている。
《鳥獣遊猟は却て日本において禁する処なれは,亜墨利加人もまた此の制度に伏すへし》。
以上,大分県の一地方における「千町無田開拓史」を題材にして,日本の稲作史における土壌肥料の問題を考察してみた。家畜糞尿などの有機性廃棄物が溢れかえり,化学肥料が安価に入手できる現代では,考えも及ばない内容かもしれない。しかし,文化土壌学の対象として,日本の歴史のー断面という観点から,それらを考えておくことも必要かと筆者は思うのである。
1)佐藤四信『豊後風土記の研究』(明治書院)1956
2)小野信一『土と人のきずな』(新風舎)2005
3)農林水産省九州農業試験場『写真でみる九州の土壌と農業』1980
4)古賀勝『大河を遡る』(西日本新聞社)2000
5)農林水産省九州農業試験場『あるいてみる九州の土壌と農業』1982
6)小野喜美夫『朝日長者』(飯田文化財収蔵庫)1991
7)芦野泉「東アジアの古代文化47号」(大和書房)1986